• 対象者別
  • マイリスト
  • 大学案内
  • 入試情報
  • 新着情報
  • 人気記事
  • NID Focus
とじる
2021.08.17 教員

「栃尾紬」は名もなき女性たちの表現力にあふれて

造形学部 プロダクトデザイン学科 菊池 加代子教授(写真右)、美術・工芸学科 小林 花子准教授

長岡市栃尾に古くから伝わる「栃尾紬」に焦点を当てて共同研究をしている菊池先生と小林先生。栃尾紬とは何か、そして長岡市栃尾美術館(以下、栃尾美術館)で9月5日まで開催されている展覧会「栃尾の手織物と絹文化2021」についてお話を伺いました。

江戸時代、飢饉から栃尾の人々を救った栃尾紬

栃尾紬とは何ですか。

菊池:ひとつの答えとして「栃尾で織られた絹織物」としていますが、調べていけばいくほど分からなくなっています。手織り、機械織りも含めて、紬糸だけではなく、繭から引いた手引きや機械引きの絹糸、節糸で織ったものも「栃尾紬」としています。平織だけではなく綾織や八つ橋織など織り方も様々です。

「栃尾紬」の歴史をたどると、江戸時代に栃堀の庄屋で植村角左衛門という人物が絹織物を奨励したという言い伝えがあります。その頃、大崎オヨという女性が織り始めた縞の模様によってデザイン性が高まり、「栃尾紬」の人気は上昇。飢饉があるたびに困窮する人々に絹織物を奨励し、少しでも暮らしが良くなるようにという植村角左衛門の願いがありました。この政策は栃尾の暮らしに活かされて、地域を支えてきました。それが今の栃尾の繊維産業へと、つながっているのではないでしょうか。

昔は栃尾のほとんどの家でお蚕を飼っていた?

昔は繭から糸を引いていたのですか。

菊池:「栃尾紬」を調べていく中で、多くの家が養蚕を行っていたという事がわかりました。80代以上の方は、養蚕の手伝いをしたことや、お蚕のエサとなる桑の木が沢山あって、実がなると採って食べる時に果汁が着物について、お母さんから叱られた思い出話などを語ってくれました。養蚕の仕事は家族総出で、お蚕をふ化させるのは温度管理が難しく、女性がそばに寝て、夜中に何度も起きて温度管理をしたこと。小さな蚕は「けご」と呼ばれ、桑の新芽を包丁で細かく刻んで食べさせたこと。徐々に大きくなって蚕の体が透き通るようになると「すきっこ」と呼んで、子ども達も手伝って、「まぶし」という繭を作る空間に一頭ずつ「すきっこ」を入れたそうです。繭が出来ると出荷されて、それが現金収入になりました。家族の着物を織るための繭や、汚れた繭、二頭が共同で一個の繭にした「玉繭」は出荷せずに糸にしたり真綿にしておきました。嫁入りの着物も繭から糸を引いて織物にして仕立てました。昭和30年代までは養蚕も機織りも行われていましたが、戦後は化学繊維の輸出が増えて女性達は工場に働きにいくようになり、着物も着られなくなり、次第に養蚕も機織りも衰退していきました。

栃尾紬を調べる最後のチャンス

なぜ栃尾紬の研究をしているのですか。

菊池:私は織物が専門で、数年前に渡邉家の一之貝絣の端切れを見せていただく機会があったのですが衝撃を受けました。家庭の女性が養蚕をして繭から糸を引き、織って、着物に仕立てるまでを一貫して行っていたからです。布の風合いやデザインも素晴らしく、学内で展示し、研究の資料として残したいと思いました。私は、そこまでと思っていたのですが、小林先生が「栃尾紬や絹文化のことを知っている方が高齢でいらっしゃるから、今、調べないと分からなくなってしまう」と。フィールドワークはハードルが高いと思っていましたが、2人だったらできると思いました。


小林:私は彫刻が専門で、木の他に真綿を作品の素材として使うことがあります。2019年の栃尾美術館での展覧会では、絹に関わりが深い地域で展覧会を行うということで、展示やワークショップの中に栃尾の絹文化に関連する要素を取り入れようと考えました。ワークショップでは、繭から糸を引いたり、真綿を作ったり、木と絹素材を組み合わせた作品を作ったりという体験をしてもらおうと計画し、参考となる道具や織物の資料を探しに栃尾の町に出掛けました。でも、その時はどこに行っても見つけることができませんでした。展覧会を訪れた多くの方々からは養蚕をしていた頃のエピソードなど、懐かしそうに教えてくださる方がたくさんいましたので、これらの魅力的な文化について誰でも知ることができるようになると良いのに、と考えたのです。

新潟県立歴史博物館と長岡市立科学博物館にお聞きしたところ、「栃尾紬」に関しては、資料がまとまっていない様子だったこともあり、菊池先生と3年計画でやってみようということになりました。正直言って、自分でやることになるとは思っていませんでした(笑)。「栃尾紬」というものと人物がつながる情報を見えるようにしたいというのが一番の動機です。最初は市民ギャラリーで展示しようと思いましたが、栃尾美術館の方から企画展示の中に入れる提案をしていただき、問い合わせにも対応してくださいました。栃尾美術館のスタッフや学芸員の方々も同じようにこの文化を大切に思い、協力してくださるのがとても大きな力になっています。



菊池:2020年に第1回目の展示「栃尾の手織物展」を開催した後、多くの資料と情報が集まりました。そこから調査が広がり、今回の展示につながりました。ぜひ地域の方から手織物にまつわる情報を寄せていただきたいと思っています。

小林:第1回目の展示では、織り手のご家族の方々と、今も1軒、栃尾紬の伝統を守り続けている、かざぜん株式会社の風間様からのご協力があり、多くの資料や情報の提供をしていただきました。地域の栃尾紬を大切に思う方々に支えられて展示ができたことが今の情報につながっています。一件、一件、できるだけ丁寧に調査したいと考えていますので、とても時間がかかっています。心苦しいのですが、お問い合わせいただいた多くの方々にお待ちいただいているのが現状です。

栃尾紬は名もなき女性たちの自己表現

展示の見どころは何ですか。

菊池:栃堀の旧家の島家や荷頃の五十嵐家の縞の着物は、今の私達にも着たいと思わせるくらい魅力的で、「こんな帯を締めたい」とイメージが湧いてきます。単なる縞ではなくて、2色の経糸(たていと)を交互にひいて、よく見ると、点と点が縞になっています。そんな細やかな手仕事に出会うのも楽しみです。

織物はいろいろな地域で織られて基本的な技術は変わらないのですが、大正から昭和の栃尾紬を見ていると、個人個人で模様が違い、その人自身の表現になっていて、織る喜びや織ることが大好きという気持ちが伝わってきます。もちろん機屋(はたや)の出機(でばた)として、こういう模様で織ってくださいと指定されて織られたものもありますが、名もなき女性たちが家族のために織った織物からは、喜びと誇りが感じられます。

小林:織り手が分かる着物を多く展示することができました。織り手ごとに、どんな思いがあって、どんな生活のなかで作られてきたのか、それぞれの物語に思いを馳せていただけたら幸いです。織り手の方が機織りをする様子が分かる写真や、紡績工場に働きに出ていた娘時代の写真、養蚕に関連する資料なども展示していますので、養蚕や機織りが盛んに行われていた当時の様子を感じ取っていただけると思います。じっくりとご覧ください。

時代に翻弄された栃尾紬を地域の誇りに

今後の研究について教えてください。

小林:栃尾紬の歴史は「栃尾市史」や「越後の伝統織物」をはじめとする書籍(昭和50年代に出版)にまとめられていますので、その確認をしたいということではありません。実際に機織りをしていた方のお話を聞き、これらの道具でどんな着物を織っていたのか、どんな暮らしと文化がつくられてきたのかということを含めて、織物の姿が見えるかたちにしたいと思っています。

地域の皆さんにお話を伺うたびに栃尾の方の中にもこの研究に興味を持って下さる方が増えてきていると感じています。私たちができるのは、今確認できる資料を整理し、少しでも多くの記録を見えるようにして残すことです。その後は地域の方々でこの文化をどう守っていくのか一緒に考え、後世に残していって欲しいと思っています。


菊池:栃尾の皆様が喜ぶ、まとめにしたいと思っています。今、協力してくださるお宅に調査や撮影に伺うと、「返さなくていいです」という方もおられます。調査をきっかけに、家族の為に大切に作ってきたものであること、その価値を知っていただけたら嬉しいです。

今、織物だけを復活させることはできるかもしれないけれど、養蚕から糸を調達することはかなり難しい。その大変な一連の仕事を栃尾の人々は、当たり前のようにしてきたのです。朝から晩まで機織り機の前に座って機を織るだけでなく、お蚕を飼って、繭から糸を引いて織物にしてきた女性たち。想像もつかないほど手間のかかる辛苦な仕事です。それなのに「栃尾紬」を見ていると労働の苦労よりも織り手の生み出す喜びを強く感じます。母親から娘へ、あるいは織物の上手なお姑さんのところに嫁いで教わって、丹精込めて織った「栃尾紬」。先人たちの素晴らしい手仕事を知ってほしいし、誇りに思ってほしいのです。

私たちが「栃尾紬」を客観的な資料として残すことで、これからの人達が、栃尾で織られた布を活用していくことが出来ると思います。何より、栃尾は織物の一大産地ですから、栃尾ブランドの素として活用できたら嬉しいです。そして、これからも栃尾の素晴らしい手織物に出会えることを楽しみにしています。

栃尾の手織物と絹文化2021について

展示の詳細はこちら